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Announcements and updates about trainer Yoshito Yahagi,
including “Yahagi Line Communication” and “YY library”.

YY library

2001.12.1 sat

ニシキ(2000優駿エッセイ賞次席受賞作品)

それまでにも、調教中や競走中の事故で僕の前からあっという間に去って行った馬は何頭かいた。だが、生死の境にある馬を看病するのは、十数年に亘るホースマン人生でも初めての経験だった。
忘れもしない4月6日、その年の桜花賞当日。菜種梅雨としては記憶に無いほど降り続く連日の雨で、坂路コースのウッドチップは重く、ぬかるんだ状態になっていた。5月3日のアンタレスSを目指すイワテニシキの調教メニューは坂路3本、しかし前半に乗ったもう1頭の担当馬カネトシシェーバーで馬場状態の悪さに閉口した僕は、即座にこれを2本に変更した。坂路1本目、大跳びのニシキはのめって実に走り辛そうだ。心なしか息遣いも悪く感じる。そして運命の2本目、設定は馬なり程度の速いところ(追い切り)。まず前半の2ハロンを15-15ペースで入る、そして手前を変えてペースアップしようとした瞬間、右トモ(後肢)が大きく滑った。だが素早く態勢を立て直すニシキ、僕はそれ以上の異常を察知できないまま馬なりで頂上へ。
ゴールを過ぎて徐々にペースを落とし、キャンターから速歩へ、―――歩様が微妙に乱れている。坂路上の広場ですぐに飛び降りて歩きを見る。右トモだ!頭から血の気が引いていくのを感じた。厩舎へ戻る間もニシキは気丈に歩いていたが、だんだんと右後肢の踏み込みが悪くなり、自分の馬房に到着したときはもうほとんど脚を着けない状態になっていた。
普段から辛抱強いニシキがこれだけ痛がるのだから、大きな故障は明らかだった。すぐに行われたX線検査の結果、右第三中足骨顆骨折により経過観察。管骨が縦に割れ、あと数センチで突き抜けるところだった。突き抜けていれば当然予後不良という重傷である。
この時からニシキの〝生〟への闘いが始まった。

名は体を表すという。検疫厩舎で初めてニシキと対面した時、真っ先にこの言葉が浮かんだ。厩舎のみんなは馬が入ってくる前、
「酒の名前か?」
「お米にそんな銘柄なかったか?」
なんてからかってくれたが、僕の印象は〝相撲取りの岩手錦〟だった。それも良く言えば素朴、言い方を変えれば田舎育ちで初めて都会に出てきた力士。岩手県公営で5戦3勝、馬体重500キロ弱、父ローマンプリンス、母アカデミースター、母の父カツトップエースというマイナーな血統。それだけの資料から僕が想像した馬がそのままそこにいた。白い部分がほとんど無い漆黒の馬体。首、管、球節、飛節、何もかも作りが大きく、特に顔はとてつもなくデカい。僕等がカイバ食いのポイントとして見る〝あごっぱり〟も立派だ。そしてとにかくおとなしい。3歳馬としてはキャリアを積んでいるから、と言うより何か皆の前で照れ、モジモジしているように僕には思えた。翌朝、跨って馬場に出てみてもその印象は変わらなかった。大跳びで不器用。もっさりとした動き。サスペンションはあくまでも硬く、しかしパワーには溢れている。カネトシシェーバーが小型スポーツカーなら、ニシキはダンプカーに例えられた。翌年1月のシンザン記念を目標に、しばらくは順調な調教が続いた。だが、3歳の大晦日に一度目の挫折を迎える。左前球節の剥離骨折で全治3ヶ月の診断。この時の骨折は軽かったが、この故障が後の右後肢骨折の引き金となり、引退するまで悩まされた左前球節炎の前兆となってしまう。結局中央緒戦は5月の京都4歳特別となった。密かにダービーの最終切符を狙ったが、結果は12着。その後も順調に出走したが、常に後方から届かずという消化不良のレースが続いた。彼らしいと言われればその通りだが、能力はあるのにそれを生かしきれないニシキの不器用さに、僕はもどかしさばかりを覚えた。
転機を迎えたのは中央デビューから1年近くが経過した5歳5月の京都戦。ダッシュが悪いニシキには災いとなる2番枠だったが、ジョッキーがこれを福に変えた。パドックで主戦の菅谷正巳を乗せると、
「行くだけ行ってみる」
の一言。好枠を利して強引に先手を奪い、終わってみれば4馬身差の圧勝。これがきっかけとなった。夏の函館長万部特別で中央2勝目を挙げた後は太秦S、花園Sと3連勝。特に、大本命バトルラインを破った花園Sは僕にとって想い出のレースとなった。強力メンバーで、ニシキ自身にやや疲れが見えたウインターSはさすがに惨敗したが、将来に大きな夢を抱いて一度休養に入り、次なる目標を大得意な京都1800ダートのアンタレスSに定めたのだった。

獣医団と協議の結果、手術は行わずギブスで固定して自然治癒という道を我々は選択した。手術をした場合、全身麻酔が醒めた後起き上がる際の反動で骨折部分が致命的に広がってしまう可能性があったからである。苦渋の選択であった。寝てしまえば終わり。それは死を意味する。おとなしく3週間立ったままの状態でいる事だけが助かる〝すべ〟であった。
一応の処置が終わり、家に帰ってスポーツ紙を広げる。華やかな桜花賞の記事を眺めていると、自然と涙が止まらなくなった。
―――どうしてトモが滑った時、すぐに馬を止めなかったんだ―――
―――どうしてあんな馬場で速いところをやったんだ―――
後悔の念ばかりが沸いてきた。
「どうしたの?何かあった?」
怪訝そうな表情で尋ねる妻。僕が重い口を開いた。
「ニシキが骨折した。もう助からないかも知れん・・・」
二人の間に長い沈黙の時が流れた。先に口を開いたのは妻の方だった。
「ニシキは家族も同然でしょ?こっちの家族は放っといていいからニシキのそばに居てあげて。私も子供もできる限り協力するから」
普段おとなしい妻としては意外な程強い口調だった。
「でも・・・そばに居ても何もしてやれない」
「あんたがしっかりしないでどうするの!悔いを残さないで!」
すぐに布団と毛布、懐中電灯と読みかけの本を厩舎に運んだ。その晩から馬房前の廊下が僕の寝室兼書斎となった。ニシキの方は、骨折が判明したその時から馬房内で張り馬(寝ないように繋いでおく事)にされていた。大好物である燕麦をはじめとする穀物類は一切シャットアウトされ、切り草と水と少々の人参だけが日々の潤いとなった。彼の警戒心を持続させ、横にならないようにする為に、痛み止めの薬は3日で打ち切られた。ほとんど動く事のできないニシキは辛そうだった。その頃僕の心の中では、辛くても何とか我慢してくれという「正の理論」と、早く楽にしてやりたいという「負の理論」が激しくぶつかり合っていた。
骨折して5日目の晩だっただろうか、浅い眠りから覚めて馬房の中を覗くと、ニシキはやはり痛むのか、しきりに前がきをしている。
馬房内に入って、小さく切った人参を与え、必死になだめる。僕にはそれ以上何をしてやる事もできない。とてつもなく辛かった、そして悲しかった。前がきを続ける彼に向かって思わず言葉が出た。
「そんなに痛いなら、もう我慢するのやめるか・・・」
投げ出したかった。
だが、一瞬僕を睨みつけたニシキの瞳は病馬のそれではなかった。生気に満ち溢れていた。僕はその時「負の理論」を捨てた。
有難い事に、骨折を聞きつけたファンの方からいくつかのお見舞いが届けられた。僕は病室と化した馬房を少しでも華やかにしたくて、送られてきたお守りを、横断幕を、千羽鶴を彼の周囲に飾り付けた。そして出来得る限りの時間をニシキと共有した。ただそばに居るだけの能力しか僕には無かったが、帰る訳にはいかなかった。独りには出来なかった。
彼はそれだけの幸せと喜びを僕に与えてくれていた。
日に日にやせ細っていくニシキ。だが彼はファンの皆さんの激励に応えるかのように、〝生〟への意欲を顕著に示してくれた。
とにかく無駄な動きを一切しない。他の脚への負担を軽減する為に、患肢に適度な負重をかける(これにより、蹄葉炎の危機が回避された)。どうしたら生きられるか、という術を彼はすべて知っているかのようだった。
そして3週間、ニシキは我々が要求する無理難題をすべてクリアーし、立ったままの状態で頑張り通した。並の馬ならとても辛抱できなかったであろう極限の忍耐であった。そこには人知を超えた〝本能〟という名の奇跡があった。
骨折した時530キロほどあった体重は、450キロを切るまでに落ちていた。筋肉は削げ落ち、ギプスは痛々しい。検疫厩舎で初めて対面した時とはまったく別の馬がそこにいた。それでもニシキは悠然と迎えの馬運車に向かって歩を進めた。それはあたかも、戦いに勝利した者の凱旋のようであった。

その後イワテニシキは再び左後肢を骨折し、一度は競走能力喪失を宣告されたが、不死鳥のように蘇り、8歳夏の札幌まで僕の手元で現役を続けた。
毎朝装鞍を終えると、引き手なしでも僕の後ろに付いて歩き、乗馬台の所でくるりと向きを変え、乗るのを待っていてくれたニシキ。
第二の故郷を思い出したかのように、生涯唯一いれ込んだ水沢マーキュリーCのパドック。
大きな顔におかっぱ頭が妙にマッチしていたニシキ。
彼に関する想い出は尽きない。現在の担当馬に情熱を注いでいる以上、過去は振り返らないのが僕の鉄則だが、ニシキと過ごした日々はホースマンとしての糧であり、財産である。
「いつかあいつ以上の馬を・・・」
そんな思いを胸に、僕は今日も馬に跨る。